本書(Bryan Wilson , Religious Sects ――a sociological study, 1970)は世界大学選書の一冊として世界各国で公刊され、すでに日本では1972-年6月平凡社から出版された。この度、平凡社の好意により一部改訂して恒星社厚生閣から再刊することになった。
セクトという概念は、今日、わが国では日常語として、特定の政治運動について「セクト」もしくは「セクト主義」などといったように、使われてきている。けれどもこのようにセクト概念を使用するさいに、一義的な、明確な意味内容が設定されているかというと、かならずしもそうではない。外来語がそのまま日本語として使用されるばあいに、しばしばみられるように、その意味内容はあいまいになっている。
デモクラシーといった一般化した外来語の事例とは相違して、とくにセクト概念については、あいまいさが著しいように思われる。そのようになっている理由は種々あげられようが、ここでは次のことを指摘しておこう。まず第一に、デモクラシーの概念が、欧米でも日本でも同一の政治領域の概念として考えられ、使用されているのに反して、セクト概念は、本来欧米では宗教領域の概念と考えられていたのであるが、日本にそれが導入されると、それは政治領域の概念と考えられ、使用されるようになった。
このように概念が他の領域に転用されるにともなって、意味内容はより一層不明確にされてきたのである。第二には、こうしたばあいに、なによりもまずセクト概念の本来的意味が充分に追求されなければならない。さらに日本の宗教集団を射程に入れたセクト、分析も必要である。しかし残念ながら日本の宗教学、宗教社会学、社会学の領域において、これらの問題はほとんど未開拓であるということである(拙稿「日本における新宗教の集団類型」『宗教文化の諸相』所収・山喜書房があるのみ)。たしかに、セクトは新宗教の問題としてとりあげられているものの、いまだそれは個別的研究の域をでてはいない。欧米のセクト概念の系譜を辿り、それを検討し、そのうえにたって日本の新宗教のセクトが位置づけられるといった手続きも、なされていない。
著者の言葉を借りていうと、セクトにかんする理念型を設定し、この「標準的物差を使用して個別の事例と変化の過程の吟味、比較」することは、ほとんどなされていないのである。こうした原因には、種々の問題があろうが、この問題とは別に、セクト概念の意味を確定するうえで、不可避なことである。
こうしたばあいに、本書におけるウィルソンの追求は、参照に値するものと思われる。ウィルソンは先駆者の諸見解を批判的に検討し、新たな見解を提示し、種々の問題点を説明している。まずセクトと関連して諸概念、チャーチ(教会)、デノミネーション、カルトなどがとりあげられ、それらとセクトの相違が指摘され、セクト概念が限定される。
さらにセクトにかんする重要な問題提起を行ったE.トレルチの見解に依りつつも、その見解について資料的限界が指摘され、とくにトレルチとは相違して、封建時代に設立された協会もなく、したがって宗教的多元主義の許容されるアメリカにおける宗教的反抗運動についても、理解できるセクト概念が設定されている。すなわちウィルソンは、セクト概念の重要な特徴として、チャーチ、デノミネーション、カルトとも異なり、しかもトレルチのように、教会に対する反抗運動のみではなく、伝統的宗教、あるいは世俗的社会に対する宗教的反抗運動についても、その反抗という点で、共通した特徴を考え、本書に示される種々の概念を提起している。さらにウィルソンにあっては、セクトの発展過程について、ニーバーとは相違して、セクトがデノミネーションにかならずしも展開するとはみていないのである。こうした諸点の指摘は、本書の新鮮さを示しているといってよい。ただ日本の新宗教を含めた概念を提出しているが、検討されるべき余地を残している。
さらに注目すべきこととして、本書においては、セクトの諸類型を設定する際の視点が、セクトの中心的特徴と関連していることである。それは、組織の様式、会員の階級的特質からではなく(だからといって、具体的な叙述において、それらが無視されてはいない)、むしろ宗教一般の基本的かつ普遍的問題、とくに救済法法に即して、しかも正統派とは相違する・世俗を否定する仕方から考えられている。こうした類型設定の視点がどれほどM・ウェーバーの世俗拒否の方法によって影響されているか、そのことはわからないが、こうした視点によって、セクトの諸類型は宗教的大衆思想運動という一種の大衆思想運動の、世俗に対する否定もしくは反抗の仕方を、よりよく示し得ているのである。
しかも本書では、かようなセクトの類型によって、時間のうえでは近代化から現代までに、空間のうえでは日本を含めた全世界(もちろん主としてキリスト教界についてであるが)にわたった宗教的大衆運動が分析され、説明されている。したがって本書には、ウェーバーが洞察してはいたものの、深くは追求できなかった、現代資本主義社会における宗教的大衆運動のかような諸様態、すなわち現代資本主義の確立・展開にともなう危機的状況の台頭に対する、現代宗教思想(主にキリスト教)の現実に対応する仕方が詳細に呈示されている。たとえば現実改革を待望する流れ―終末観をともなったキリスト再臨思想、至福千年思想の台頭が熱狂的興奮をもたらし、ときには兵役拒否をともなった国家権力への反抗運動を誘発している―、現実逃避を基調とする居留地建設の流れ――原始キリスト教の具体化として原始共産主義を目指す共同体主義者が台頭し、ときには性の否定(裏返しとしての性のアノミー)、あるいは良心的兵役拒否の反抗運動をともなっている―、また現実に妥協し、現代科学を取り入れた神秘主義の流れ、その他が示されている。これらの指摘は、現代社会の初思潮が宗教的大衆運動、とくにセクトの動きを通じてしめされているといってよかろう。
著者B.ウィルソンは現在オックスフォード大学の社会学教授である。(1991年現在) |