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能田忠亮博士の名著は永らく絶版となり、中国天文学史に関心を持つ方々から渇望されていたが、五十年を経た今日に覆刻される運びになったことは、指導を受けた私としては誠に喜びにたえない。荒木俊馬博士の序文にみえる通り、能田先生は京大理学部宇宙物理学教室を卒業され、卒業後も教室にとどまった宇宙進化論をテーマとして研究されていた。先生が現代天文学の研究から一転して中国天文学史の研究に専心されるに到ったのは、宇宙物理学教室の創始者であり、その主任教授であった新城新蔵博士の慫慂によるものであった。新城博士は東大物理学科を卒業されて京都大学に赴任されたが、将来の天文学は物理学を基礎とする宇宙物理学の方向に進むことを予見され、東大の天文学科に対し、あえて宇宙物理学科の名称をつけられた。この博士が中国天文学史に関心を持たれて研究を進められ、教室においても東洋天文学史の講義を開かれたのは、当時の京都大学の雰囲気が影響している。
明治末年から昭和初年にかけて京大文学部には狩野君山、内藤湖南などの世界的シノロジストが活動し、その学問的影響は理学部にも及び、新城博士や小川琢治博士などが中国研究に目を向けたのである。当時の京都大学は綜合大学の名にふさわしく、学部の枠を越えた研究が行われたのである。時恰も外務省に対支文化事業部ができ、その助成によって昭和四年に東京と京都に研究所ができた。東方文化学院京都研究所(後に東方文化研究所と改名)には狩野先生が所長となり、京都大学の有名な中国研究者が評議員となって運営されたが、能田先生は新城先生の推薦で最初の研究員として中国天文学史の研究にはいられた。当時の書院は二十代三十代の人が多く、所内はいつも活気に漲っていた。濱田青陵博士のプランというヨーロッパ僧院風の瀟洒な白壁造りの研究所をはいると広いロビーがあり、ゆったりした椅子が置かれていた。研究につかれた所員は毎日のようにここに集まって議論をたたかわした。
研究所には門限はなく、興到れば徹夜することも珍しくなかった。教育に時間を割く必要はなく、研究に専念できた。研究設備としての漢籍図書は整備され、当時としては他に類をもない環境の中におかれていたといえる。こうした環境の中で能田先生の研究が始まったが、理学部出身者が漢籍を読みこなすことに多くの困難を伴ったと思われる。しかし狩野君山先生の指導を得、また若い同僚学者の刺激を受け昭和八年に刊行されたのが『周髀算経の研究』であった。古来難解とされた周髀算経のついて諸版本の比較校勘からはじまり、過去の注釈書及び研究書を詳細に検討し、厳密な内容解明を行ったものである。この書は「算経」とはいいながら中国最古の宇宙構造論である蓋天説をはじめて論じたもので、かつて宇宙進化論を研究対象とされた先生がこの課題に類似した書物に存分の関心を集中されたものである。この研究につづいて蓋天説と並ぶ渾天論をとりあげたものが漢代論天攷である。中国には他にも宇宙構造論に関する説はあったが、蓋天・渾天の二説はその代表的なものであり、詳細な文献資料がある。『漢代論天攷』を以って一応この分野の研究を終えられた先生は古文献中の天文学的史料について二つの長編を発表された。一つは秦の改時改月説であり、他は詩経の日食である。この間研究所における公式研究課目は禮記月令の天文記事の新研究であった。この研究については荒木先生の序文に詳しいが、少しく書きそえておこう。
狩野君山先生は広い視野の持主で、天文学的研究に深い関心を示された。よく言われたことであるが、文科系の考証では甲論乙駁でなかなか決定的なことが言えないが、その点天文計算による考証は曖昧さを残さない明確な結論が導かれると述べられていた。なるほど能田先生の結論では、禮記月令の天象は前六二〇年を中心として前後二百年の観測によるものと立証されたが、この結果は現在においても妥当なものと考えられる。しかしこの結論に到達するまでには、本文の解釈に種々の困難な問題が横たわっていた。
禮記月令の天象記事にみえる一年十二カ月が、陰陽暦の月か或いは太陽暦的な節月によるものかの記述がない。また観測日が各月の何れの日に当たるかも明示されていない。さらに示された南中星は独立した一個の星ではなく、ある広がりを持った二十八宿の星宿で示されており、こうした場合の南中はどういう意味を持つかなど、問題は多い。こうした問題を十分に吟味され、万人を納得させるような解釈を施した上で上記の結論に到達されたのであって、極めて周到な準備の上に天文学的処理が行われたのであり、先生の研究の手堅さを遺憾なく発揮されたものといえよう。
禮記月令の研究を刊行された昭和十三年には、いよいよ本格的な日中戦争が始まっていた。この研究につづいて夏小正に関する論文を発表されたが、落付いて研究を行う環境は次第に失われてきた。宣氏得は東洋暦術調査事業を計画され、これには東大名誉教授平山清次先生や大阪に隠棲しておられた百済教猷先生が参加された。二人の学者はともに天体力学を専攻され、また暦計算の大家であり、何れも思い出多い学者である。
最後になったが、私自身は昭和十年に東方文化研究所に入り、先生の指導を受けた。学問については厳正な考証を尊ばれたが、平生の態度はまことに春風駘蕩たるものであり、正に大人の面影があった。新城先生の遺志を継がれ、東洋天文学史の研究を発展された。この方面について京都が世界の一中心となった現在の基礎を築かれたものであり、本書は正にその記念碑といえよう。
平成元年八月三日
藪内清
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